昭和61年(1986年) 秋葉原の“その時”

昭和61年というと筆者はちょうど二十歳。一浪を経て大学に入った年である。昭和も60年代となると、同世代の中には「つい最近じゃないか」と言ってしまう向きも少なくないと思うが、もう29年も前であることを留意していただきたい。まだ携帯電話もインターネットも普及していない、現在と比べればコミュニケーション手段はあまりに稚拙だった昭和の一角にすぎなかったのである。そんな昭和61年に関して、先日、実に興味深い動画を発見した。同年当時の東京・秋葉原の日常を撮影したホームビデオである。それをみると、この時期が一つの曲がり角にあったことがわかってくる。

かつて秋葉原駅に隣接する北西エリアには神田青果市場、通称やっちゃ場が広がっており電気街と並ぶ街の顔となっていた。午前中を中心に都内各地からやってきた八百屋さんのトラックが行き交い、早朝の周辺は電気街以上に活気を呈していた。覚えておられるだろうか、その当時、秋葉原駅北口には立ち食いラーメン屋など小さなめし屋がひしめき、駅下のアキハバラデパートにはどんぶり飯を食わせるフードコートがあった。それらは秋葉原のもう一つの顔を支える男たちのエネルギー源供給基地だったのだ。現在その名残は、UDX向かいのかんだ食堂や電気街の一角で営業を続けるあだち食堂、牛丼屋のサンボに見ることができる。

その青果市場が大田市場に移転するのはこの3年後の1989年で、この映像はその最後の姿を収めたといえる貴重なビデオである。

さらに動画の先を見ていくと、電気街の様子が登場するが、今から考えるとびっくりするほど、店舗の数が少ないことに気づく。いや、近年は電気街というほどに電気製品を売る店は最盛期ほど多くはなくなっているのだが、明らかに店舗エリアが狭いのである。人々が主にたむろしているのは、総武線の線路下に今なお残るラジオセンターを中心とした一角だ。細かい部品を求めて全国からここへ集まってくるという図式は今とあまり変わらないのかもしれないが、アニメキャラの巨大看板やゲームの広告などがでかでかと掲げられたイマドキのアキバの絵はそこにはない。だが、この頃既にそういったいわゆる“萌え”的なものを追っかける若者文化の芽生えというものはあり、裏通りの雑居ビルの上の方の階へあがって行くとマニア垂涎のワンダーランドがアンダーグランドに置いて展開していたのだった。そうした時代を先取りする人々(理工系の大学生に特に多かったイメージがある)がパソコンという最新機器を囲んで様々な試行を案じていた。その成果がようやく世間に広まり始めるのは平成が産声を上げる頃となる。

今や世界に轟くヲタクの聖地・秋葉原。その胎動が始まったのが昭和61年だったと言っていいだろう。そして、かつてやっちゃ場のあんちゃんたちの胃袋を支えた名店たちは今、この街に新たな潮流を運び込むヲタクたちに活力を与え続けている。(了)

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昭和61年(1986年) 秋葉原の“その時”」への1件のフィードバック

  1. 初めまして、学生時代アルバイトをしていた秋葉原が懐かしく秋葉原1986で検索してたどり着きました。
    奇しくも当時私も20才でありその後、昭和の終焉を某ビルにてむかえる事になりました。
    今でも時々秋葉原には足を運びますが再開発後は加速度的に当時の面影が無くなり寂しい限りです。
    いすずのラーメンもう食べられないし、秋デパ1階のお好み焼きも・・・
    残念ですが時代の流れは止められませんね。
    秋葉原に限らず懐かしいあの時代を切り取る貴殿のブログ楽しみにしております。

    いいね

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