昭和46年(1971年) 新宿に巨大建造物を見た日

筆者が幼稚園に入る直前だから昭和45年冬のことだったか。家の近所の駐車場に入り込んで友達とかくれんぼなどをして遊んでいた時のこと、怖いもの知らずだった筆者は3階くらいまでの高さがある梯子によじ登って手を滑らし、コンクリートの地面に頭から落っこちるという事故をやらかした。下手すりゃそこでこの世とおさらばしていたわけだが、運よく一命は取り留めたものの、右側頭部のあたりに陥没の疑いがあるとして浦和の自宅から少し離れた大きめの病院にタクシーで運ばれた。なんとなくその状況は記憶に残っているので、そう考えれば重症ではなかったのかもしれないが、まあ幼児ということもあり検査をしてみなければということで人生初の入院を経験することになった。

しかし、ことが頭のなかとあってその病院では手に負えなくなったのか、諸般の経緯で新宿駅西口界隈にある総合病院に転院させられることとなった。人生初の東京住まいは新宿だったというわけだ。

800px-Keio_Plaza_Hotel_-01 そこで、手術を受けるか受けないかですったもんだして悶々とした日々を送っていた折り、病院の庭に立った筆者はその向こうに見たこともない真っ白な巨大建造物を目の当たりにした。当時、巨大なビルといえば霞が関ビルがその名を轟かせており、押さなかった筆者さえもそれは認識していた。しかしここは間違いなく霞ヶ関ではない。では、あれは何だ?すると看護婦さんが教えてくれた。あれは京王プラザというホテルなのだと。ホテルという宿泊施設がどういったものかも知らなかった筆者だったが、なるほどホテルとはあのようなでかいものでなければならないのか。よく見ればビルのてっぺんにはクレーンが見え、まだ建築中だということも分かった。

ふむ、ああした背の高い建物が立ってるのが大都会というものなのか。そんな思い出をインプットした筆者は、結局入院中に体調が芳しくなかったことから手術をうけることはなく、さして何もせぬまま退院。頭の右上を触るとなんとなくそこだけ平らという違和感こそあったがその後ほったらかしになり、成長とともにその違和感もいつしか消えてしまった。筆者がその後、意図とちょっと違う思考をしがちになったのはその時の事故のお陰ではないかと勝手に思い込み感謝もしている。

そして、あの日眺めた京王プラザホテルビルは筆者が退院した半年後の昭和46年6月にオープン。高度成長の総仕上げというべき様相を露わにし、高層ビルの街・新宿のいち番手として君臨し、怪獣映画や刑事ドラマにおいて時代を象徴する背景セットとしても重宝されることになった。それらの映像を目にするたびに、筆者はあの日の入院生活と、病院の看護婦さんたちが歌っていたその年のヒット曲『走れコウタロー』の音色がよぎるのである。

ちなみにその京王プラザホテルに筆者が初めて足を踏み入れたのは、昭和62年2月、当時所属していた大学のサークルの追い出しコンパの時だった。大学生風情がケープラで飲み感だなんて、つくづくバブルな時代だったんだなあ。

昭和54年(1979年) 神保町で宇宙船を見つけた

世界有数の書店街と言われる東京・神田神保町。筆者がその存在を知り足を踏み入れたのは昭和54年、中学1年の秋ごろだっただろうか。当時鉄道少年だった筆者は『鉄道ファン』『鉄道ジャーナル』といった雑誌を買ってはボロボロになるまで読み潰す日々だった。そして最新刊では飽きたらず、近所の古本屋に行って数年前発売のバックナンバーまであさり、知識の蓄積に努めていた。しかし、たかだか浦和のローカル古書店に置いてある点数などしれている。ちょうどその頃発売された『鉄道ファン』の創刊200号に掲載されていたバックナンバーの表紙一覧を目にしてしまった筆者は、いくつか気になる号をチェックしつつ、どこかで手に入れることができないか、いや揃えるのは無理としても一度目にしておくくらいはしておきたいと考えていた。そんな折、同じ部活の友人から、古本店が何軒も軒を連ねる夢の様な街が存在することを知り、彼とともに早速赴いた。思えばそれまで、万世橋に当時あった交通博物館や秋葉原以外、神田という街を全く知らなかった。

国鉄水道橋駅から降りて南へ歩いてしばらく、その街は突然我が眼前に現れた。噂はほんとうだった。いや、想像を超えていた。大通りにそってズラリと並んだ書店の数に圧倒された気持ちは今も忘れられない。こんなに本屋さんがたくさんあってどうするんだろう?とも。だが、町のしくみはすぐに理解できた。それぞれの店は医学書や美術書、法律関係らしい難しそうな本、更に我々の夢の世界というべきマンガ専門店に至るまで、専門分野ごとに器用に別れ、それぞれの店に見合った客が出入りしている。浦和にある自宅の近所には須原屋という大きな総合書店があって、コーナーやフロアごとに分野がわかれていたが、この街は町ごと総合書店を形成し、店単位で専門コーナーを作り上げていたのだ。こうして改めて書き記してみると子どもじみた発見というしかないのかもしれないが、例えば海外からやって来る観光客がこの街を今訪れたとするなら、おそらく36年前の筆者と同じ感じ方を持つのではないだろうか。

IMG_0646 そんな神保町に通い慣れた昭和56年、新たな顔が出現した。三省堂本店である。それまで日本一と言われた東京八重洲ブックセンターをも凌ぐ、国内最大の書店は“本の街・神保町”のランドマーク兼コンシェルジェのような存在として現在まで君臨している。巨大総合書店=神保町をバランスよく凝縮した三省堂は、筆者のような神保町通いを始めて間もない初心者には好都合だったし、店の一角を占めるレストランや喫茶店は書籍文化の成熟ぶりを示していた。

だが、神保町を語る上で、もう一つの主役を省いてはお話にならない。そう、書泉だ。三省堂が神保町における東の横綱なら、そこから西へ数100メートル離れた書泉グランデは文字通り西の横綱だ。しかも三省堂とすずらん通りを挟んだ向かいには書泉ブックマートが太刀持ちのごとく鎮座する。しかも両横綱の中身は極めて対照的だ。東の横綱がバランスを重視した王道的総合書店を標榜しているのに対し、西の横綱の売りは数寄者への特化にある。もちろん書泉にもひと通りの一般書は置かれているが、鉄道や車、マンガやゲーム、更にオカルト、宗教関係などマニアがつきやすい分野における網羅性が半端ではない。雑誌のバックナンバーも古書店を凌ぐほど充実しており、神保町通い上級者の拠り所の役目を担っている。特に、別館にあたる書泉ブックマートには、後にオタクと呼ばれるようになる漫画やアニメ、アイドル関係の書籍を漁るマニアが当時からたむろしており、筆者を神保町マニアの道へと誘ってくれた元凶的存在だった。

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そんな書泉グループの太刀持ち、ブックマートにもついに断髪式を迎える日が近づいてきた。9月30日をもって閉店することが発表されたのだ。通販やコンビニの広がりにより激震下にある書店業界にあって、さしもの書泉もその影響を免れることはできなかったということなのだろうか。思えば80年代、神保町には地上げの嵐がすずらん通りを中心に吹き荒れ、小さな個性的な本屋さんが次々と駐車場へと変貌するきつい時代を経験した。それでも書泉ブックマートは中身を巧みに変えながらもサブカルの発信地としてこの街を支えてきた。その老兵がついにシャッターを下ろす日が来たのだ。一抹の寂しさはもちろんあるが、ここは感謝の気持で見送りたくもある。

サブカル、ヲタクの聖地といえば秋葉原というのが今の世間の常識なのだろうが、その発祥は間違いなく秋葉原より少し西にそれた神保町にあったはずだと筆者は信じてやまない。そしてその始まりは、書泉ブックマートに山と積まれていた特撮ファン御用達雑誌『宇宙船』にあったのだと確信するのである。

昭和61年(1986年) 秋葉原の“その時”

昭和61年というと筆者はちょうど二十歳。一浪を経て大学に入った年である。昭和も60年代となると、同世代の中には「つい最近じゃないか」と言ってしまう向きも少なくないと思うが、もう29年も前であることを留意していただきたい。まだ携帯電話もインターネットも普及していない、現在と比べればコミュニケーション手段はあまりに稚拙だった昭和の一角にすぎなかったのである。そんな昭和61年に関して、先日、実に興味深い動画を発見した。同年当時の東京・秋葉原の日常を撮影したホームビデオである。それをみると、この時期が一つの曲がり角にあったことがわかってくる。

かつて秋葉原駅に隣接する北西エリアには神田青果市場、通称やっちゃ場が広がっており電気街と並ぶ街の顔となっていた。午前中を中心に都内各地からやってきた八百屋さんのトラックが行き交い、早朝の周辺は電気街以上に活気を呈していた。覚えておられるだろうか、その当時、秋葉原駅北口には立ち食いラーメン屋など小さなめし屋がひしめき、駅下のアキハバラデパートにはどんぶり飯を食わせるフードコートがあった。それらは秋葉原のもう一つの顔を支える男たちのエネルギー源供給基地だったのだ。現在その名残は、UDX向かいのかんだ食堂や電気街の一角で営業を続けるあだち食堂、牛丼屋のサンボに見ることができる。

その青果市場が大田市場に移転するのはこの3年後の1989年で、この映像はその最後の姿を収めたといえる貴重なビデオである。

さらに動画の先を見ていくと、電気街の様子が登場するが、今から考えるとびっくりするほど、店舗の数が少ないことに気づく。いや、近年は電気街というほどに電気製品を売る店は最盛期ほど多くはなくなっているのだが、明らかに店舗エリアが狭いのである。人々が主にたむろしているのは、総武線の線路下に今なお残るラジオセンターを中心とした一角だ。細かい部品を求めて全国からここへ集まってくるという図式は今とあまり変わらないのかもしれないが、アニメキャラの巨大看板やゲームの広告などがでかでかと掲げられたイマドキのアキバの絵はそこにはない。だが、この頃既にそういったいわゆる“萌え”的なものを追っかける若者文化の芽生えというものはあり、裏通りの雑居ビルの上の方の階へあがって行くとマニア垂涎のワンダーランドがアンダーグランドに置いて展開していたのだった。そうした時代を先取りする人々(理工系の大学生に特に多かったイメージがある)がパソコンという最新機器を囲んで様々な試行を案じていた。その成果がようやく世間に広まり始めるのは平成が産声を上げる頃となる。

今や世界に轟くヲタクの聖地・秋葉原。その胎動が始まったのが昭和61年だったと言っていいだろう。そして、かつてやっちゃ場のあんちゃんたちの胃袋を支えた名店たちは今、この街に新たな潮流を運び込むヲタクたちに活力を与え続けている。(了)