粒ぞろいの秋アニメ、キーワードは“新しい昭和”

10月放送開始の深夜アニメがほぼ出揃った。前期(7〜9月期)は稀に見る豊作と言われ、最終回まで見届けた作品もかなり多く、季節の切り替えが難しいとも予想されたが、今期もそれに劣らないかもしれない佳作候補が現状、散見されている。何しろ数が多く放送時間が長いものから短いものまで、ヲタク向けを意識したものから池袋方面向けまで多種多彩なのは相変わらずで、傾向をひとまとめにするのは危険な試みであることは重々承知しているが、それで昔ならではのノイズ付きでもなんとなく流れというか、この季節独特の匂いというものがわかってきた気はしている。今期の匂いとは、ズバリ、昭和である。

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まず、『おそ松さん』である。ご存知、ギャグ漫画の神様・赤塚不二夫御大の出世作であり往年の国民的タイトル『おそ松くん』、その3度目のアニメ化は、その話が伝わった時、無謀の二文字しか浮かばなかった。だが、おそ松をはじめとする六つ子らのCVキャストを見た時、これは神作になると筆者は確信した。櫻井孝宏、中村悠一、神谷浩史、福山潤、小野大輔、入野自由と、ひとりで主役を張れるメンツがずらりと顔を揃え、基本ハンコ絵キャラを演じるのである。これが何か起こらず終わるはずがない。更に監督は『銀魂』の藤田陽一、危険な匂いがプンプンだ。

で、蓋を開けてみた第1話はカオスの塊だった。開始冒頭、画面は4:3の白黒となり、49年前の初代アニメ版としか思えない作画が展開される。しかもご丁寧に昔ならではのノイズ付きで。六つ子たちは3度目のアニメ化に喜びはしゃぐというメタ展開で進み、深夜アニメ隆盛の今、どうしたらファンがついてきてくれるか考えた挙句、次の場面で突如、6人は『うたの☆プリンスさまっ♪』を髣髴とさせる八頭身のイケメンキャラに姿を変え大人気アイドルグルループのごとくライブを展開するのである。そして間髪入れず、いわゆる腐女子あてイケメンアニメのパロディが機関銃のように乱射される。さらにおフランス帰りのミーことイヤミまでも金髪で本当にフランス語ペラペラのバリバリイケメンキャラとなって現れ“スタイリッシュ・シェー”を披露。続いて『ハイキュー』やら『黒子のバスケ』やら『弱虫ペダル』やら『ラブライブ!』やらと深夜アニメの人気タイトルのパロディを畳み込んでいく。極めつけは巨人となって襲いかかるチビ太!もちろん右手にはおでんを持ってる。

もうやりたい放題。これらのパロディ自体は珍しくないがここまでハチャメチャに詰め込んでくるのは見たことがない。だが、そのドタバタ感はまさに往年の赤塚不二夫マンガが何度もやってきた大定番でもある。おそらくパロディにされた元作の権利者たちは怒るどころか手を叩いて歓喜したのではないのだろうか。「あの赤塚先生のキャラとどう湿気できたなんて夢のようだ」と。

正直、大2話意向もこのペースが維持できるのか帰って心配になるほどのパワフルギャグをかましてくれたのが「おそ松さん」だった。

そしてもう1本、昭和40年代ののシュールさを大胆な作画と緻密なシナリオで展開してくれているのが『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』だ。


平行世界というべき「もう一つの日本」が舞台。劇中では“神化”という年号が使われているがどうやら昭和41年らしい。高度成長というターボエンジンでモーレツに加速、変貌していく世の中で、我々の知るフィクションの世界で活躍していたはずの“超人”(要するにウルトラマンとかエイトマンとか魔女っ子とかオバケのQ太郎とか)たちのの本当は言いたかっtのではないかと思われる心の叫びを主人公たちが解き明かしていく、取ったようなストーリー展開で、何しろ色彩の使い方や周囲の小道具類のデザインが未来レトロちっくでめちゃくちゃかっこいいのである。主人公がトヨタ2000GT似の車を運転中に受信したパンチ穴が空いた紙テープを見ながら「こんなもの運転しながら読めるか!」っと口走るシーンには思わず爆笑。そして折々に流れる昭和40年代の流行歌(第1話では「あの素晴らしい愛をもう一度」、第2話では「空に星があるように」)が実に効果的で涙さえ滲んできてしまう。俺たちの未来は本当はこれではないのかと言いたくなるほどに。ほぼオリジナルアニメに近いらしくこの先取展開していくのか皆目読めないのではあるが、そこは筆者と同じ昭和41年タメ年の水島精二監督(兄者)のこと、大いに期待したいところだ。

昭和40年代に夢を置き去りにしてきた同年代有志諸君、この秋はこれら新しい昭和を展開する深夜アニメで夜長を過ごしてみてはいかがだろう。

昭和53年(1978年) 神宮の森に東京音頭がこだました

筆者が野球に夢中になった昭和50年代は、日本のプロ野球史における大きな過渡期だった。王者巨人の連覇は9で途切れ、ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄がバットを置いたあと、セパともに群雄割拠の時代を迎えた。昭和49年、巨人に代わり日本一の座についたのはカネやんこと金田正一率いるロッテオリオンズだった。万年Bクラスだった広島カープが“赤ヘル旋風”を起こして初優勝を飾ったのが昭和50年。同じ年、近鉄バファローズは後期優勝を果たし、進行球団が次々と力をつけてきた。ちょうどドラフト制度が取り入れられてから10年が経ち、優秀な人材がかつての弱小チームにも加入するようになり、戦力が均等化された成果がちょうどこの頃に顕在化したということだろう。

そして昭和53年、広島と同じくBクラスが指定席だったヤクルトスワローズが、12球団最後の優勝の美酒を味わった。この年のヤクルトは、就任3年目の智将・広岡達朗監督指揮のもと、アベレージヒッターの若松勉、強打の大杉勝男、大砲・チャーリー・マニエル、新加入のヒルトンらを軸とした打線が安定。これに船田、伊勢という代打の2枚看板がスパイスとなり、終盤に強い“逆転のヤクルト”としてペナントレースにおける台風の目となっていた。投手陣では豪速球で鳴らすエース・松岡弘と左アンダースローの安田猛、技巧派の会田の3本柱がその実力をいかんなく発揮した。

この年、小学6年生だった筆者は、家の近所の床屋のあんちゃんがくれるヤクルト戦のチケットを握りしめ、千駄ヶ谷の神宮球場まで何度となく通ったものだ。当時埼玉は西武ライオンズが移転してくる前夜で、特定の球団を応援する地場はなく、ご多分に漏れずなんとなく巨人が数寄で応援しているといった適当なファンが点在する地域だった。「威張った奴は嫌いだぜ」と「侍ジャイアンツ」の番場蛮のセリフに感化されたわけでもないが、筆者はどうしても巨人を好きにはなれず、そんな折にたまたま近所のイトーヨーカドーで見かけたYSのロゴが付いた野球帽が目に付き、以後、スワローズファンを名乗ることになった。更に床屋のあんちゃんがしょっちゅうくれたチケットがたまたま隣のヤクルト配達所のつてだったために神宮球場の券だったことが重なり、ますますヤクルトスワローズの得も言われぬ魅力に引き込まれていったのだった。

だが、ファンになりたてだった昭和50年頃のヤクルトは正直、ぱっとせず、突如変貌した広島カープの姿を歯がゆい思いで眺めていた。ちょうど、急激に盛り上がり始めたカープ女子の傍若無人ぶりを最下位の底辺から見つめていた去年のヤクルトファンの如く、である。若松や松岡ら個々の選手はいいところを見せるのに肝心なところで勝てない。挙句、51年夏には当時監督だった荒川博(王貞治に一本足打法を伝授したえらーいお方)が成績不振で休養を言い渡さえるにいたり、チームはどん底状態に。そこに登場してきたのが、ヘッドコーチから新監督に昇格した広岡達朗だった。広岡は翌52年、元巨人の森昌彦(川上巨人のブレーンとしてV9を影で支えたえらーいお方)をヘッドコーチに据え、本格的に球団改革に着手。後に西部監督就任時に話題となる菜食主義や、選手の奥方たちを呼んでの選手の管理方法の伝授など、選手たちのライフスタイルにまで立ち入る大胆な指導法で、負け癖がついた弱小チームを優勝を争える集団へと作り変えた。こうした内情を小学生の自分たちが知るのはずっと後だったが、この頃からヤクルトの何かが変わった様子は私達にも直感的に伝わってきた。

そして迎えた昭和53年のペナントレース。本来なら簡単に落としていたはずのギリギリの勝負を、この年のヤクルトは終盤の粘りでひっくり返し、着々と勝ち星を重ねた。そして9月を迎え、3連続リーグ優勝と5年ぶりの日本一に執念を燃やす巨人と、球団創設29年目にしてついに巡っていきた優勝のチャンスを逃すまいとするヤクルトは壮絶なデッドヒートを繰り広げる。そこでもヤクルトは、自慢の代打陣の活躍で逆転勝利を連夜に渡り演出。神宮球場の1塁側スタンド(そういえば当時は応援団が陣取るスペースは内野席が主流だった)は岡田応援団長によるフライパンを叩いての伴奏の元、いつしか定着していた東京音頭の歌声が響き渡った。

そして迎えた10月4日、神宮球場での対中日戦で、スワローズはエース松岡の力投でついにペナントを勝ち取った。そこには万年最下位に甘んじた弱小チームの姿はなかった。

そんな昔話から37年、昨年までのBクラス住まいと決別した真中監督率いる東京ヤクルトスワローズはあの日を思いださせるように14年ぶりのセ・リーグ優勝の美酒に酔ったのである。

昭和46年(1971年) 新宿に巨大建造物を見た日

筆者が幼稚園に入る直前だから昭和45年冬のことだったか。家の近所の駐車場に入り込んで友達とかくれんぼなどをして遊んでいた時のこと、怖いもの知らずだった筆者は3階くらいまでの高さがある梯子によじ登って手を滑らし、コンクリートの地面に頭から落っこちるという事故をやらかした。下手すりゃそこでこの世とおさらばしていたわけだが、運よく一命は取り留めたものの、右側頭部のあたりに陥没の疑いがあるとして浦和の自宅から少し離れた大きめの病院にタクシーで運ばれた。なんとなくその状況は記憶に残っているので、そう考えれば重症ではなかったのかもしれないが、まあ幼児ということもあり検査をしてみなければということで人生初の入院を経験することになった。

しかし、ことが頭のなかとあってその病院では手に負えなくなったのか、諸般の経緯で新宿駅西口界隈にある総合病院に転院させられることとなった。人生初の東京住まいは新宿だったというわけだ。

800px-Keio_Plaza_Hotel_-01 そこで、手術を受けるか受けないかですったもんだして悶々とした日々を送っていた折り、病院の庭に立った筆者はその向こうに見たこともない真っ白な巨大建造物を目の当たりにした。当時、巨大なビルといえば霞が関ビルがその名を轟かせており、押さなかった筆者さえもそれは認識していた。しかしここは間違いなく霞ヶ関ではない。では、あれは何だ?すると看護婦さんが教えてくれた。あれは京王プラザというホテルなのだと。ホテルという宿泊施設がどういったものかも知らなかった筆者だったが、なるほどホテルとはあのようなでかいものでなければならないのか。よく見ればビルのてっぺんにはクレーンが見え、まだ建築中だということも分かった。

ふむ、ああした背の高い建物が立ってるのが大都会というものなのか。そんな思い出をインプットした筆者は、結局入院中に体調が芳しくなかったことから手術をうけることはなく、さして何もせぬまま退院。頭の右上を触るとなんとなくそこだけ平らという違和感こそあったがその後ほったらかしになり、成長とともにその違和感もいつしか消えてしまった。筆者がその後、意図とちょっと違う思考をしがちになったのはその時の事故のお陰ではないかと勝手に思い込み感謝もしている。

そして、あの日眺めた京王プラザホテルビルは筆者が退院した半年後の昭和46年6月にオープン。高度成長の総仕上げというべき様相を露わにし、高層ビルの街・新宿のいち番手として君臨し、怪獣映画や刑事ドラマにおいて時代を象徴する背景セットとしても重宝されることになった。それらの映像を目にするたびに、筆者はあの日の入院生活と、病院の看護婦さんたちが歌っていたその年のヒット曲『走れコウタロー』の音色がよぎるのである。

ちなみにその京王プラザホテルに筆者が初めて足を踏み入れたのは、昭和62年2月、当時所属していた大学のサークルの追い出しコンパの時だった。大学生風情がケープラで飲み感だなんて、つくづくバブルな時代だったんだなあ。

昭和54年(1979年) 神保町で宇宙船を見つけた

世界有数の書店街と言われる東京・神田神保町。筆者がその存在を知り足を踏み入れたのは昭和54年、中学1年の秋ごろだっただろうか。当時鉄道少年だった筆者は『鉄道ファン』『鉄道ジャーナル』といった雑誌を買ってはボロボロになるまで読み潰す日々だった。そして最新刊では飽きたらず、近所の古本屋に行って数年前発売のバックナンバーまであさり、知識の蓄積に努めていた。しかし、たかだか浦和のローカル古書店に置いてある点数などしれている。ちょうどその頃発売された『鉄道ファン』の創刊200号に掲載されていたバックナンバーの表紙一覧を目にしてしまった筆者は、いくつか気になる号をチェックしつつ、どこかで手に入れることができないか、いや揃えるのは無理としても一度目にしておくくらいはしておきたいと考えていた。そんな折、同じ部活の友人から、古本店が何軒も軒を連ねる夢の様な街が存在することを知り、彼とともに早速赴いた。思えばそれまで、万世橋に当時あった交通博物館や秋葉原以外、神田という街を全く知らなかった。

国鉄水道橋駅から降りて南へ歩いてしばらく、その街は突然我が眼前に現れた。噂はほんとうだった。いや、想像を超えていた。大通りにそってズラリと並んだ書店の数に圧倒された気持ちは今も忘れられない。こんなに本屋さんがたくさんあってどうするんだろう?とも。だが、町のしくみはすぐに理解できた。それぞれの店は医学書や美術書、法律関係らしい難しそうな本、更に我々の夢の世界というべきマンガ専門店に至るまで、専門分野ごとに器用に別れ、それぞれの店に見合った客が出入りしている。浦和にある自宅の近所には須原屋という大きな総合書店があって、コーナーやフロアごとに分野がわかれていたが、この街は町ごと総合書店を形成し、店単位で専門コーナーを作り上げていたのだ。こうして改めて書き記してみると子どもじみた発見というしかないのかもしれないが、例えば海外からやって来る観光客がこの街を今訪れたとするなら、おそらく36年前の筆者と同じ感じ方を持つのではないだろうか。

IMG_0646 そんな神保町に通い慣れた昭和56年、新たな顔が出現した。三省堂本店である。それまで日本一と言われた東京八重洲ブックセンターをも凌ぐ、国内最大の書店は“本の街・神保町”のランドマーク兼コンシェルジェのような存在として現在まで君臨している。巨大総合書店=神保町をバランスよく凝縮した三省堂は、筆者のような神保町通いを始めて間もない初心者には好都合だったし、店の一角を占めるレストランや喫茶店は書籍文化の成熟ぶりを示していた。

だが、神保町を語る上で、もう一つの主役を省いてはお話にならない。そう、書泉だ。三省堂が神保町における東の横綱なら、そこから西へ数100メートル離れた書泉グランデは文字通り西の横綱だ。しかも三省堂とすずらん通りを挟んだ向かいには書泉ブックマートが太刀持ちのごとく鎮座する。しかも両横綱の中身は極めて対照的だ。東の横綱がバランスを重視した王道的総合書店を標榜しているのに対し、西の横綱の売りは数寄者への特化にある。もちろん書泉にもひと通りの一般書は置かれているが、鉄道や車、マンガやゲーム、更にオカルト、宗教関係などマニアがつきやすい分野における網羅性が半端ではない。雑誌のバックナンバーも古書店を凌ぐほど充実しており、神保町通い上級者の拠り所の役目を担っている。特に、別館にあたる書泉ブックマートには、後にオタクと呼ばれるようになる漫画やアニメ、アイドル関係の書籍を漁るマニアが当時からたむろしており、筆者を神保町マニアの道へと誘ってくれた元凶的存在だった。

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そんな書泉グループの太刀持ち、ブックマートにもついに断髪式を迎える日が近づいてきた。9月30日をもって閉店することが発表されたのだ。通販やコンビニの広がりにより激震下にある書店業界にあって、さしもの書泉もその影響を免れることはできなかったということなのだろうか。思えば80年代、神保町には地上げの嵐がすずらん通りを中心に吹き荒れ、小さな個性的な本屋さんが次々と駐車場へと変貌するきつい時代を経験した。それでも書泉ブックマートは中身を巧みに変えながらもサブカルの発信地としてこの街を支えてきた。その老兵がついにシャッターを下ろす日が来たのだ。一抹の寂しさはもちろんあるが、ここは感謝の気持で見送りたくもある。

サブカル、ヲタクの聖地といえば秋葉原というのが今の世間の常識なのだろうが、その発祥は間違いなく秋葉原より少し西にそれた神保町にあったはずだと筆者は信じてやまない。そしてその始まりは、書泉ブックマートに山と積まれていた特撮ファン御用達雑誌『宇宙船』にあったのだと確信するのである。

昭和61年(1986年) 秋葉原の“その時”

昭和61年というと筆者はちょうど二十歳。一浪を経て大学に入った年である。昭和も60年代となると、同世代の中には「つい最近じゃないか」と言ってしまう向きも少なくないと思うが、もう29年も前であることを留意していただきたい。まだ携帯電話もインターネットも普及していない、現在と比べればコミュニケーション手段はあまりに稚拙だった昭和の一角にすぎなかったのである。そんな昭和61年に関して、先日、実に興味深い動画を発見した。同年当時の東京・秋葉原の日常を撮影したホームビデオである。それをみると、この時期が一つの曲がり角にあったことがわかってくる。

かつて秋葉原駅に隣接する北西エリアには神田青果市場、通称やっちゃ場が広がっており電気街と並ぶ街の顔となっていた。午前中を中心に都内各地からやってきた八百屋さんのトラックが行き交い、早朝の周辺は電気街以上に活気を呈していた。覚えておられるだろうか、その当時、秋葉原駅北口には立ち食いラーメン屋など小さなめし屋がひしめき、駅下のアキハバラデパートにはどんぶり飯を食わせるフードコートがあった。それらは秋葉原のもう一つの顔を支える男たちのエネルギー源供給基地だったのだ。現在その名残は、UDX向かいのかんだ食堂や電気街の一角で営業を続けるあだち食堂、牛丼屋のサンボに見ることができる。

その青果市場が大田市場に移転するのはこの3年後の1989年で、この映像はその最後の姿を収めたといえる貴重なビデオである。

さらに動画の先を見ていくと、電気街の様子が登場するが、今から考えるとびっくりするほど、店舗の数が少ないことに気づく。いや、近年は電気街というほどに電気製品を売る店は最盛期ほど多くはなくなっているのだが、明らかに店舗エリアが狭いのである。人々が主にたむろしているのは、総武線の線路下に今なお残るラジオセンターを中心とした一角だ。細かい部品を求めて全国からここへ集まってくるという図式は今とあまり変わらないのかもしれないが、アニメキャラの巨大看板やゲームの広告などがでかでかと掲げられたイマドキのアキバの絵はそこにはない。だが、この頃既にそういったいわゆる“萌え”的なものを追っかける若者文化の芽生えというものはあり、裏通りの雑居ビルの上の方の階へあがって行くとマニア垂涎のワンダーランドがアンダーグランドに置いて展開していたのだった。そうした時代を先取りする人々(理工系の大学生に特に多かったイメージがある)がパソコンという最新機器を囲んで様々な試行を案じていた。その成果がようやく世間に広まり始めるのは平成が産声を上げる頃となる。

今や世界に轟くヲタクの聖地・秋葉原。その胎動が始まったのが昭和61年だったと言っていいだろう。そして、かつてやっちゃ場のあんちゃんたちの胃袋を支えた名店たちは今、この街に新たな潮流を運び込むヲタクたちに活力を与え続けている。(了)